幼い頃の記憶と今の私をつなぐ、「アイヌ」という言葉

モレウ工房代表 篠原章子(しのはら・あきこ)

1979年生まれ。北海道紋別郡遠軽町出身。

子どものころからアイヌ文化に親しみを感じながら育ち、成人して結婚後、

2014年から本格的にアイヌ文化の研究とアイヌ刺繍に取り組み始める。

プライベートでは3人の男子の母親。

 

尊敬する人物は芸術家の岡本太郎氏と、アイヌ刺繍作家・チカップ美恵子氏。

 

 

 


北海道の小さな町、遠軽から

私は、北海道の遠軽町(えんがるちょう)という小さな町の生まれです。

自然とあたたかい人たちに囲まれておおらかにのびのびと育ちました。

遠軽町には一目でわかる、特別なシンボルがあります。それは、町の真ん中にそびえる大きな大きな岩。町のどこからでも見えるその岩は、瞰望岩(がんぼういわ)と呼ばれて人々に親しまれています。

この岩は、もともとアイヌの人たちの砦や展望台の役割をしていたのだと子どものころに学校で習いました。アイヌ語ではその名前を「インカルシ(眺めの良い場所)」と呼び、それが「えんがる」という町名のもとになったのだと。

クラスの男の子が「畑から出てきた」と不思議な石を持ってきたことがあります。「十勝石」と地元で呼ばれる、ガラス質の黒い半透明な石がとがった美しい形に加工されたもの。大人の人たちは、「きっとアイヌの矢じりだね、大事にしなさい」と言いました。

 

町の資料館には、古い、不思議な模様の着物がひっそりと展示されていました。

周辺の町や地域にも、おそらくアイヌ語がもとになっている地名がたくさんありました。

よそのおうちにお邪魔すると、よく棚の上にはふたつ対になったアイヌの木彫りのお人形がありました。

 

そんな風に、私の子ども時代の思い出には「アイヌ」という言葉がそこここにあります。

 

苦しみ、見つめる自分の思い

大人になった私は北海道を出て東京に暮らします。

結婚し、3人の小さな息子たちに恵まれ目まぐるしく毎日が過ぎていく中で、いつしか私は「何のために生きているんだろう、私はどんな人間だったんだろう」という思いにさいなまれるようになりました。

子どもたちの手を引いて歩くとき、必要以上に神経質になってしまう。他愛もないいたずらに目くじらを立てて、自己嫌悪に陥る。

のんびりした性格のはずだった私は、いつも周りの目を気にしていらいらせかせかしていました。

どんなお母さんでも通る道でしょう。

しかし、その子育ての苦しみと同時に私は、自分の根っこがないような、家族に囲まれていながらどこにもつながれていないような孤独感でいっぱいになって完全に自分を見失っていました。

 

そんな中、自分がどんなものを好きだったのか必死で思い出そうとして、ノートに書き出してみたことがあります。

 

きれいな石 革の手触り ガラス玉 ものをつくること 刺繍された服 木や花に触ること 強い風 藍染めの色

 

そこまで書いて、ふと「アイヌ」のことを思い出したのです。

子どものころ、空気のようにあったアイヌの土地の名残。私はそれを懐かしんでいるのか。自分でもよくわかりませんでしたが、何かの大きなヒントのような気がしました。

ちょうどそんなころ、家族で北海道へ帰省する機会がありました。

そして札幌から温泉地の登別へ行く途中、白老町の「アイヌ民族博物館」に立ち寄ることになったのです。

 

知らなかった、アイヌのこと

ポロトコタン(大きな湖の村)とも呼ばれるアイヌ民族博物館では、アイヌの古式舞踊を見学することができます。

目にも鮮やかなルウンペ(生地に帯状の切り伏せ文様をほどこした着物)を着た人々が、手拍子とともに独特の節で歌う歌、そして刀をかざして舞うエムシリムセ(剣の舞)。

 

それらを見ているうちに、私の中でふつふつと何かが沸き起こってくるのを感じました。

知らなかった。私は何にも知らなかったんだ。

北海道に18年もいたのに、アイヌのことは何一つ知らずに過ごしてしまった。こんなに美しい、素晴らしい文化のことを。勉強しなくては、もっと知らなくては。どうしてか、私はこの歌やこの踊り、この人たちの着る着物がたまらなく好きだと感じたのです。

 

着物を見ればその魔よけの意味をもつという文様の美しさに呆然となり、ひとつひとつの民具のことを知るたびに知恵の深さに感動しました。凍った広い広い2月のポロト湖の上を子どもたちと、自分も子どもに帰って走り回り、博物館を出るころには私の心は決まっていました。

 

私は、アイヌのことを勉強しよう。私の故郷に残った美しい民族の文化のことをもっとたくさんのひとに伝えたい、そう思いました。

 

 

私はシャモ、私はシサム

アイヌ刺繍を始めたころ、よくいろいろな人から

「あなたのルーツはアイヌなのですか?」

と尋ねられました。

ここまでお読みくださった方はお判りでしょうが、私はアイヌ民族の血を持つ人間ではなく、昔北海道に移住してきた和人の子孫です。

このことについて、今なお私は複雑な思いに駆られます。

アイヌ民族について学べば学ぶほど、アイヌの人々の知恵や世界に感動すればするほど、和人がアイヌにしたことを悲しく、申し訳ない気持ちでいっぱいになるのです。

私の刺した刺繍をほめてくださったあとで、「シャモ(和人)は賢いね」とつぶやいたアイヌのおばあさんの言葉が忘れられません。

 

“アイヌ刺繍を学んでくれてありがとう、でも和人を心から許しているわけではない。だけど、あなたのような若い人が刺繍をしてくれるのは本当に嬉しいのよ。”

 

おばあさんの、そんな複雑な心の声が聞こえたような気がしました。

私には、アイヌの文化を学んだり語る資格なんかないのではないか、とよく思います。

しかし、私を「シサム」(本当の隣人)と呼んでくれる人もいます。

できれば、私はそうありたいと願っています。できることなら、一緒にこれからの未来を歩むものとして、アイヌの人たちとともにありたい。

起こった歴史は取り戻せなくても、これからをつくっていきたいのです。

 

時代は刻刻と変わりつつあり、私と同じようにアイヌ文化に関心をもつ人々が増えてきました。

札幌を歩けば、素晴らしいアイヌ刺繍のタペストリーや、道内の匠と呼ばれる木彫り職人たちによるアイヌの像を見ることができるようになりました。

それでも、まだこれからです。

これから本当に、アイヌも和人も理解しあい、一緒に新しい時代を作っていく時がやってくるのだと私は思っています。